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シカゴといえば「ギャング」や「禁酒法」、「アルカポネ」がすぐ思い浮かびますが、アルカポネがシカゴを牛耳っていたのはキャンディ・キャンディの最終回よりも10年ほど後のこと。
なので、ここではあまり知られていないキャンディの時代のシカゴがどんな街だったのかを追ってみることにします。

キャンディが生まれる前のシカゴ

<シカゴ市の誕生>
1833年、シカゴは町になった時点で人口は350人で、市に昇格した1837年でも4,200人ほどでした。
シカゴは南北戦争 (1861-1865) と大陸横断鉄道の開通 (1869) を契機に発展していきました。

<鉄道>
市に昇格した翌年には鉄道が開通し、数多くの鉄道が次々と放射線状に敷設されたので、またたく間に「全米最大の鉄道の拠点」に押しあがり、20を超える鉄道会社が乗り入れていました。

シカゴは世界に名を馳せた豪華列車「プルマン寝台車 (1867年)」の発祥地でもあります。
管理人は鉄子ではありませんが、このプルマン寝台車がどれだけ豪華絢爛だったかすごく気になります。『観光コースでないイリノイ・シカゴ』によると、「車内で調理できるグルメ・ダイニングカー」・「ナイフやフォークは銀製」・「頭上にはシャンデリアが輝き」・「ランプシェードは絹製」・「皮張りの椅子」・「冷暖房完備」・・・「ベッドのインテリアなどは現代の高級ホテル以上の豪華さ」と、まるで動くホテルのようです。うわぁ、乗ってみたい。

<シカゴ大火>
1871年10月8日に発生した大規模火災。
3日間燃え続け、シカゴの中心部の建造物の大半を焼失。(詳細)
アードレー家がいつからシカゴに住んでいたのかわかりませんが、シカゴ大火はエルロイ大おばさまが若い頃 (10代?) の出来事になるかなと思いますが・・・エルロイ大おばさまっていったい何歳なんでしょうか?

<シカゴの摩天楼 - 鉄骨の高層ビル>
シカゴ大火後、再建のために空前の建築ブームが起こりました。
大火後は、中心街での木造建築が禁止され、鉄骨骨組を大火被覆で包む新工法が考案されました。
シカゴではヨーロッパ都市と異なり高さ制限がなく、1889年にはエレベーターが電化され、オフィスビルと商業建築の「高層化」が急速に進むことに。
19世紀末、シカゴはニューヨークを凌ぐ摩天楼都市でした。
マンガでは、アードレー家の紋章のついたビルが立ち並ぶシカゴの摩天楼を、キャンディがステアたちに車で案内されるというシーンがあります。
「わあ、大きい建物がおおいのね。すごいわ」というキャンディのセリフは、単におのぼりさん的に驚いていたわけではなく、シカゴの高層ビルのあまりの高さに圧倒されていたのかもしれませんね。

<シカゴ万国博覧会>
1893年に開催された、コロンブスの「新大陸発見」400年を記念する博覧会で、「コロンビア博覧会」とも言います。
日本も参加していました。(日本館: 鳳凰殿
このシカゴ万博で人々の関心を集めたのは「電気」でした。
エジソンはキネトスコープ (映画の前身) のほかに、白熱灯とアーク灯を用いた「光の塔」というイルミネーションを出品し、人々を驚かせました。
会場全体で使われた白熱灯が7万個で、アーク灯が5千個。当時全米で、白熱灯は90万個とアーク灯が6万5千個しかなかったので、とんでもない数の電球でした。

会場は白一色のパビリオンが建ち並び、「ホワイトシティ」の別名で知られています。
当時の写真やパンフレットがWEBで見ることができますが、この古典建築の白亜の建物群は、まるでヨーロッパの歴史的重要文化財が立ち並んだ街のよう。
でもなんで建物がほとんど残ってないのか不思議だったのですが、このホワイトシティはなんとほとんどが「ハリボテ」。
木材とスチールの上にかぶせたスタッフという白い建材で作られた建物は、閉会後に火事でほとんどが焼失してしまったのです。
シカゴ科学産業博物館」と 「シカゴ美術館」が博覧会で使われた建物に移転し、現存しています。

【その他のエピソード】
 ・博覧会の閉会式直前に、シカゴ市長のC・H・ハリソンが暗殺。
 ・ウォルト・ディズニーのお父さんが、この博覧会の工事現場で働いていた。
 ・「オズの魔法使い (1900年)」のエメラルドの都 (エメラルドシティ) は、シカゴ万博の
  「ホワイトシティ」がモチーフだったらしい。
   ※オズの魔法使いは、1902年にシカゴでミュージカル初演。
アルバートさんの年齢はマンガや小説には記述がないためはっきりとはわかりませんが、シカゴ万博が開催されたのは、5才前後の頃になるかなと思います。
シカゴ万博は国家的な大事業で、地元の実業家たちの全面的な援助によって開催されたそうなので、アードレー家もこのような一大イベント時には、国内のみならず外国のお客様を接待したりと、ホスト的な役割を果たしていたかも。

<シカゴの映画会社>
1897年にアメリカ初の映画会社「セリグ・ポリスコープ (Selig Polyscope)」が設立される。
※1927年にトーキーが製作されるまで、映画はサイレントの時代です。
1907年、「エサネイ (Essanay)」設立。全米で初めて照明ライトの下で西部劇を作った会社だそうです。1915年にチャップリンはエサネイで14本の短編映画を監督・主演。
1911年にハリウッドに映画スタジオが設立され、映画の中心はニューヨークとシカゴからハリウッドへと移っていきました。



シカゴの実業家

<チャールズ・タイソン・ヤーキース (Charles Tyson Yerkes 1837-1905)>
シカゴ・電気・鉄道史関連の本でよく出てくるのが、この「ヤーキース」という実業家。
19世紀末から20世紀初頭、彼はシカゴやロンドンなどの都市の公共輸送システムを近代化 (電化) するという重要な役割を担ってきました。
ただし、彼はシカゴで最も悪名高い「悪徳資本家」でもあり、その悪行ぶりは小説のモデルにもなっています。

輸送システムの実情はつぎはぎだらけで、運賃は二重取りし、故障した車両は直さず、役人や議員たちは賄賂で買収・・・etc。
怒った市民がシカゴからヤーキースを追放しようと、ショットガンなどの武器を手にした「市民十字軍」が結成されたほど。
彼はシカゴから追い出されたあと、1901年にロンドンの地下鉄電化事業に参画しました。(この事業は金融王モルガンも狙っていたのですがなんとか阻止)
ロンドンで悪事を働く前に病気になりアメリカへ戻ったためか、意外にもロンドン輸送史では好意的に伝えられているらしいです。

【現存するヤーキースの建造物】
 ・シカゴ大学のヤーキース天文台 (YERKES OBSERVATORY)
  1897年創設。

この時代、シカゴの役人・議員たちの腐敗ぶりは相当なもの。
さすがの悪党ヤーキースも、汚職まみれのシカゴの市会議員たちに賄賂をやり続けるのにはうんざりしていたらしい、というようなことが書いてあった本がありました。(笑)
アードレー家くらいの大富豪だと、市長や議員・役人たちとの力関係はどうなんでしょう?

<バーサ・パーマー (Bertha Palmer 1849-1918)>
女性の実業家、名士、そして慈善家。
彼女の夫のポッター・パーマーは、シカゴ史にはよく名が出てくる有名な大富豪なのですが、ここはあえて夫人のバーサ・パーマーの方を。

彼女についてはまとまった資料がないのですが、シカゴ関連の本にはけっこう出てきます。
当時の新聞には「シカゴ社交界のリーダー」などと書かれています。
よくヨーロッパに出かけていて、ロンドンやパリにも家があり、ヨーロッパの上流階級にも人脈があったようです。
芸術分野ではパトロンでした。まあ、お金持ちですからね。
(彼女は当時まだあまり評価が定まっていなかったモネ、ルノアールなどの印象派の作品を買い集め、死後、シカゴ美術館に自分のフランス印象派コレクションを寄贈)

「シカゴ婦人クラブ」の初期メンバーで、社会福祉事業などの活動も行っていました。
婦人クラブは都市によっては文化活動 (カルチャーセンターみたいなもの) 中心のところもありましたが、シカゴでは、「法律補助の会」「公共美術協会」「女性と子供のための保護所の設立」などの活動・討論の場を提供していたそうです。

上述のシカゴ万博では女性委員会の理事長を務めたりもしていました。
外国の賓客の接待などもしており、1902年には、欧米視察でシカゴに立ち寄った伊藤博文をパーティに招待しています。

彼女のことを「シカゴの女王バチ」と書いてあるサイトもありました。なんかすごいやり手で強い女性をイメージさせます。

パーマー家は不動産開発・ホテル経営などをしていて、下記が有名なようです。

 ・「Palmer Mansion (1885)」
   シカゴの個人の住居では最大の時もあったという豪華な大邸宅。
 ・「Palmer House (1875)」
  豪華ホテル。
  シカゴ大火後の再建ということもあり耐火性には優れ、イタリアの大理石・モニュメント
  の階段・エレガントな談話室・カフェ・理容室・新婚用スイート・ダイニングルーム・遊歩
  道・・・と、当時の最新の贅沢を誇った。

エルロイ大おばさまの年齢は、バーサ・パーマーと同じくらいなのではと思います。
でも、大おばさまは古いタイプの女性というイメージがあるので、女性の地位向上のため活動していたバーサ・パーマーとはちょっと違う感じですね。

<サミュエル・インサル (Samuel Insull 1859-1938)>
20世紀初頭、シカゴの電力システムは世界最大と考えられていました。
そして、電気料金はどの都市よりも格安でした。
そのシカゴの電力システムを作ったのが、コモンウェルス・エジソン社の電力王サミュエル・インサルでした。
インサルは1881年にイギリスからアメリカへ渡り、発明王エジソンの秘書を務めました。その後はシカゴを中心としたアメリカ電気事業界でインサル財閥を築きました。
エジソンは小規模発電所で直流電流の生産を行うことに固執し失敗しましたが、インサルは交流電流の巨大な中央発電所を建設し全国規模の送電線網を構築しました。
インサルは従量課金や基本料金の考え方を作り、加入者が増えれば増えるほど電力は安くなっていったのです。

世界大恐慌後、インサルはアメリカ政府から証券詐欺の容疑で裁判にかけられました。
しかし、政府側はその主張を立証することができませんでした。
そして陪審員の出した判決は「無罪」。
政府は大恐慌で誰か非難を受ける悪者がいなければならないと考え、インサルはそのスケープゴート (犠牲の羊) にされたという見方が一般的なようです。
インサルは無一文で死んだという噂があるのですが、実際にはパリ地下鉄のプラットホームで心臓発作を起こして死んだときに財布を盗まれたため、そういう噂が広まったらしいです。

【現存するインサルの建造物】
 ・キューニオ博物館 (Cuneo Museum and Gardens)
   1914年に建てたインサルの大邸宅。
   映画『ベスト・フレンズ・ウェディング』で結婚式の披露宴の場所として使われた事で
   有名。
 ・シビック・オペラハウス (Civic Opera House)
   1929年設立。

【その他】
  雑誌『TIME』の表紙 ( 1926年, 1929年, 1934年 )



福祉活動

<ジェーン・アダムズ (Jane Addams 1860-1935) - ハルハウス>
上記のバーサ・パーマーと同じく上流階級出身で、同時代にシカゴで活躍した女性福祉活動家に「ジェーン・アダムズ」がいます。
父親は熱心な奴隷制度廃止主義者でリンカーンの友人。
医者をめざしペンシルバニア女子医科大学へ進んだのですが、父親が亡くなり、自分も脊髄の手術のために医大での勉強を断念。その後、2年間にわたりヨーロッパを旅することになります。そして、ロンドンで「セツルメント」のモデルとして有名だった「トインビーホール」を訪問。
ジェーン・アダムズは、1889年シカゴに「ハルハウス(Hull House)」という、アメリカ初のセツルメントハウス(隣保館) を設立しました。
ハルハウスは、救貧にあえぐ移民たちの救済センターでした。
ジェーンは貧困者のための福祉活動や女性の救援、平和主義の運動を行い、1931年にノーベル平和賞を受賞しました。

このようなセツルメント活動をしている人は、お金持ちの女性が多かったそうです。
彼女たちは働かなくても生きていけるので、こういったボランティアに参加できるということもありましたが、良家に嫁に行っていい家庭を築くこと以外に、女性が外に出て社会に自分の居場所や活動の場を求めるようになっていった時代でもあったようです。

同じ福祉活動でも、バーサ・パーマーの方は自分が上流階級であることを前面に出して人脈もフル活用してそうです。ラガン夫人などアードレー家のご婦人達はこっちにすり寄って行きそう。
ジェーン・アダムズのような地道な活動は、キャンディがやりそうな (向いている) 気がします。
孤児院や医療活動はお金がかかりそうですが、アルバートさんも援助してくれそうですし、ポニー先生・レイン先生という大先輩がいます。マーチン先生は・・・すでに活動してるも同然?

シカゴの会社

<シアーズ・ローバック - 通信販売>
1893年創業の小売業者。
時計の通信販売から始まり、多種多様の商品を扱うようになった。(1895年のカタログは500ページ以上。商品は写真ではなくイラストで掲載)
農民がメイン顧客で、商品は大量生産の実用品。
「シアーズ・ローバックの品物で育った」といえば、ぜいたくに育てられたのではないという意味。 あらゆる農村家庭に普及し、聖書よりも親しまれたといわれています。
参考文献 『アメリカを知る事典』平凡社

シカゴは鉄道網が全米に張り巡らされたハブ駅だったので、流通にはすごく便利な場所。全米中にシアーズ・ローバックの顧客がいました。

おもしろいのが、1898年の「1ドル送れ (SEND US ONE DOLLAR)」というキャッチコピー。
1ドル払うと、自宅近くの配送所に注文した品物が送られて、気に入ったらその場で残金を払うというもの。
やめたければ1ドルは無駄になるけれど、「現物を見てから決められた」というところが画期的ですごいアイデアですね。あっ!でも、当時の1ドルは一日分の給料でした!

『メークアップの歴史 (リチャード・コーソン 著)』に1900年頃のシアーズのカタログが載っていたのですが、「かつら」「つけ髭」「毛染め」など、アルバートさん変身キットのようなものが売っていました (笑) アルバートさんのあの髭は本物だったんでしょうか?

<マーシャル・フィールド - 百貨店>
マーシャル・フィールド (Marshall Field's) は、1856年創業の老舗デパート。
19世紀末、シカゴ内にはいくつか百貨店がありましたが、マーシャル・フィールドは上流階級を相手にした百貨店でした。
上述のバーサ・パーマーは上得意客で、ウィリアム・マッキンリー大統領夫人もこの店で大統領就任式用のイブニングドレスをあつらえたそうです。社会的・政治的有名人の顧客も多かったんですね。
管理人はシカゴには一度も行ったことがないのですが、ここでぜひ見てみたいのが、1907年にアールヌーボー・ガラスのデザイナーであったティファニーが作った「ティファニー・ドーム」。
1階から6階までの吹き抜けのホールに、160万個のピースを組み合わせたモザイク・ガラスの豪華な装飾のドームは、ローマの聖ペテロ寺院 (バチカンのサン・ピエトロ寺院?) のドームにも匹敵すると書いた評論家もいたほどだそうです。
参考文献 『百貨店の博物史』アーツアンドクラフツ

当時の百貨店は、中流および上流階級の集いの場。アードレー家は上得意様だったかもしれませんね。
でも、もしかしたら、ヨーロッパから直接お取り寄せをしていたかも?
パリの老舗デパート「ボン・マルシェ」は季節ごとに商品カタログを配布していました。アメリカからの注文もあったそうです。

<銀行>
シカゴには金融王モルガンのような大口の企業融資を行う「投資銀行」はなく、主に個人向けの銀行業務を行っていた「商業銀行」のみだったようです。
ただ、大手商業銀行の中には、投資銀行業務を行っているところもあったらしいです。
シカゴの銀行は地方銀行も顧客でした。多くの地方銀行は、ニューヨークやシカゴの大銀行へ「銀行間預金」をしていました。
詳細は「銀行・世界大恐慌」に書きました。

アードレー家の銀行のイメージは、部外者に監視されない同族経営の「個人銀行」で、業務としては大口の企業融資を行う「投資銀行」のようなイメージがありますが、どうなんでしょう?

<ピンカートン探偵社>
シカゴの「ピンカートン探偵社 (1850)」は、アメリカ初の警備会社。
鉄道警官や、銀行・工場・デパート・ホテルなどで警備をしていて、全米の大都市すべてに支社がありました。
膨大な量の犯罪資料のデータベースを所有し、シカゴ本部事務所には、全国の警察から犯罪者に関する情報の照会があったそうです。
詳細は「銀行・世界大恐慌」に書きました。

ジョルジュの情報網もすごそうですが、こういう探偵社を使っていたかもしれませんね。

シカゴの社交界

上述のバーサ・パーマーが、「シカゴ社交界の女王」または「シカゴ社交界の女性実力者」と呼ばれていたようなので、キャンディの時代にシカゴの社交界を仕切っていたのは彼女だったのではないかと思います。
ニューヨークの社交界について書いてある本はあるのですが、シカゴの社交界についての記述はあまりないんですよね。
アルバートさんは、キャンディの最終回後にシカゴ社交界デビューっぽいですが、キャンディはどうするんでしょうね。


シカゴで暮らす

<高級住宅街>
大富豪たちはプレーリー・アベニュー (Prairie Avenue) やゴールド・コースト (Gold Coast) に大邸宅を構えていました。
上述のバーサ・パーマーが城のような豪邸を建てて以来、富豪たちがこの高級住宅街に移り住むようになったそうです。
 ・プーレーリー・アベニューの写真集
 ・ゴールド・コーストの邸宅の写真

<労働者の生活>
1905年に刊行されたベストセラー小説『ジャングル (アプトン・シンクレア著)』。
これは小説の形をしたいわゆる告発本で、当時、一大センセーションを巻き起こしました。
本の内容はというと、非衛生きわまる食肉業界の内情と、劣悪な労働条件のもとで働かされている労働者の幻滅と絶望を描いています。この本は「シカゴを一番よく表現している」と言われているらしいです。
この小説を読み驚愕したセオドア・ルーズベルト大統領は、連邦調査員を急遽シカゴに派遣し、実情調査に乗り出したそうです。 そして、本の出版から半年で「純正食品医薬品法」が成立。(でも、肝心の労働者側の就労問題に関しては話題にならず。なんだ結局は自分が食べる肉が心配なだけか・・・)
調査員の報告では、実情は小説の告発以上に劣悪で危険だったらしいです。
1905年はキャンディの世界で言えば、キャンディが丘の上の王子様と出会った頃。(6才くらい)
キャンディは12才頃からラガン家で働かされていました。
当時のイリノイ州の法律では16才未満の就労は違法でしたが、貧困にあえぐ労働者の子供は年齢をごまかして働いていました。
上述の女性活動家ジェーン・アダムズは、「児童労働禁止法制定」の運動をしていたそうです。

<アパート暮らし>

【参考】当時の一般的な年収 (1910年)
 農業=336ドル、学校職員=492ドル、産業=630ドル 
 日給だと1〜2ドルくらい。

 シカゴでの20世紀初頭 女性の例
仕事 賃金 (週) 家賃 (週) 食事 (1日) 備考
デパート売り場
8:15〜18:35
(月〜土)
6ドル50セント
+
(チップ) 15 セント
2 ドル (朝) 15 セント
(昼) 14〜16 セント
(夜) 20 セント
赤字
新聞は高根の花
いつも腹ペコ状態
参考文献 『ミスター・カポネ (著:ロバート・J・シェーンバーグ)』

<電気>
キャンディがシカゴでアルバートさんとアパート暮らしをしていた頃の電気代はいくらくらいだったんでしょうね。

シカゴのあるアパート・ビルの統計データがあったので、一件あたりの「電気使用量」と「料金」を算出してみました。

 シカゴでの年・月・日別 「電気使用量&料金」 (1914年)
年間
使用量 257 kwh 21.4 kwh 0.7 kwh
料金 18.34 ドル 1.5 ドル 5セント
参考文献 『電力の歴史 (著:T.P.ヒューズ)』P.309より

電気代は一日数百円といったところでしょうか?
当時はテレビもラジオもなかったので、主に使用していた電気は電灯くらいなのかな?
1914年の家庭用電気器具普及率では、電話が約25%、掃除機と洗濯機が約5%。
電気製品自体があまりないのですが、トースターなどもあったみたいですね。

余談ですが、「日本では昭和14年 (1939) に一日に「1kwh」使用していた」と、以前テレビの実験番組で やっていました。電気料金の請求書で、自分の家では何kwh使用しているか確認してしまいました (笑)
この表のデータは、ちょうどキャンディとアルバートさんがシカゴで暮らしていた年のデータです。

<電話>
電話は1876年ベルが発明 (特許取得) しましたが、料金が高かったため、主に医者・事業主・経営者が使用していました。
ベル社の特許が切れた1893、1894年以降、電話の自由競争が激化。加入者数は急増し電話料金は急激に下がり、技術やサービスも向上しました。

1900年にシカゴ・ベル社では、10軒共同加入の「コイン式共同回線」をとりつけました。
※通話のたびにニッケル (5セント硬貨) を入れる方式。
共同回線は、「複数の顧客で同じ回線を使用するので、個人専用の回線よりも料金が安い」というメリットがありましたが、 「話し中が多い」「ほかの加入者にも呼び鈴が鳴る」「盗み聞きされる」などの問題点もありました。
電話はマンガや小説には出てきませんでしたが、アードレー家にはあったでしょう。
料金が安くなったとはいえ、キャンディとアルバートさんが住んでいたあのボロアパートにあったかどうかは微妙です。 あったとしても、アパート全体で1台かな?

<床屋>
カットのみで25セント。
当時のアメリカの床屋は部分ごとに料金が決まっていたそうです。今もそうなのかな?
それを知らないで、カット以外にシャンプーや髭そり・・・といろいろつけてしまうとすごい値段になってしまう。
参考文献 『シカゴ日系百年史 (シカゴ日系人会 著)』
キャンディがニューヨークから帰ってきたときに、アルバートさん「のびすぎちゃったからね。リボンでしばるわけにもいかないし」と、髪の毛切ってましたね。

<映画>
5セント

<市内電車>
10セント (1905年)

<安い宿泊所>
1907年、カトリック教会の特別無料宿泊所や、救世軍の宿泊所 (一泊10セント) があったそうです。
救世軍の宿泊所はキリスト教徒でなくても先着順で宿泊ができ、夕食には一杯のスープとパン、朝食にはコーヒーとパンが付いたらしい。
あとは、一泊10セントの安宿があり、詰め込み式の相部屋で上下二段のバンクベッド。

アルバートさんが記憶喪失で病院を抜け出した時、あのあとキャンディと会えなかったら・・・と子供の頃、余計な心配をした時がありました (笑) でもまあ、無料宿泊所があったりと、なんとかなったんですね。
あと、キャンディがアパートで二段ベッドを使っていましたが、あれバンクベッド (bunk beds) っていうんですね。

<シカゴに行った日本人>
【岩倉具視】 - 岩倉具視使節団 (アメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団)
  1872年。ワシントンに向かう途中、シカゴに立ち寄った。
  木戸孝允、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通など、政府のトップや留学生を含む総勢
  107名の使節団。
  日本とシカゴの交流元年となった。
  シカゴ大火の2カ月後だったため、大火見舞金に5千ドルを寄付したそうです。

【早川雪洲】 - 日本初のハリウッドスター
  1913年にシカゴ大学を卒業。その後1915年にロサンゼルスで映画デビュー。

【永井荷風】 - 作家
  1905年にシカゴを訪れている。
  『あめりか物語』の「市俄古の二日」はシカゴの滞在記。

【長谷川海太郎】 - 作家
  1920年にシカゴを訪れている。
  「林不忘」「牧逸馬」「谷譲次」の3つのペンネームを持つ。
  時代小説『丹下左膳』シリーズが有名。
  『めりけんじゃっぷ』は、ドキュメンタリー・タッチの小説。本人のアメリカ体験記?

【日本人移民】
留学・出稼ぎ目的でシカゴに行った日本人は、1907年で50人くらい。
日本人の娼婦もいたそうです。
学生は仕送りだけではやっていけないので、仕事をしながら大学に通っていました。

【当時の為替レート】
1ドル2円。
 ※1906年、日本での巡査の初任給は月12円 (6ドル)

頑張って働けば、一財産築いて日本に帰れたわけですが、食事や衛生面も悪くヒーターもないような宿に泊まり、結核で亡くなった方も多かったそうです。

【仕事】
主な仕事は、お金持ちのハウスワーク (バレット・バトラー・コックなど) かレストラン (ウェイター) で、知り合いに紹介してもらうか、シカゴ・トリュビューンなどの新聞に求職広告を出していたそうです。
1907年頃、ハウスワークは住み込み食事つきで、月25ドル〜30ドル。コックだと40〜60ドル。 レストランの場合はチップがあり、給料よりもチップのほうが多かったらしい。
参考文献 『シカゴ日系百年史 (シカゴ日系人会 著)』

アルバートさんは皿洗いだったので、チップなしだから月30ドルくらい? もっと少ないかも?


カポネ以前のシカゴの支配者

シカゴは急速な発展を遂げて、またたく間にニューヨークに次ぐ全米第二の都市になりましたが、その反動の歪みも大きかったようです。
1880年には87%が移民とその子供で占められた移民都市でした。
まず最初に1840年以降アイルランド系が入植してきて、次にドイツ、ポーランド系・・・。
シカゴで移民というとイタリアのイメージが強いですが、実際にイタリア移民が増えたのは1890年代以降だそうです。
政治家の多くはアイルランド系で、警官もアイルランド系が非常に多かった。(消防も多い)
そして、シカゴは「ボス・マシン政治」だったようです。

  【ボス政治】
  影の政党組織マシーンの最高指導者によって牛耳られた政治。
  ボスたちの多くは市会議員や市長といった地位についていた。

  【マシン】
  ボスが大量の新移民に対する慈恵的援助と引き換えに、彼らの票集めを行っていた。
  移民は、市民権獲得・就職から葬式まで、あらゆる面で政治家に依存していた。

キャンディの時代の20世紀初頭、ボス政治家に牛耳られたシカゴは、貧困や売春や衛生面、そして犯罪などさまざまな問題を抱えていました。(そのあたりは、小説『ジャングル』に描かれています)

【シカゴでの有名なボス政治家 (1890年代〜)】
  ・"バスハウス" と呼ばれるジョン・コーリン (John Coughlin)
  ・"ヒンキー・ディンク" と呼ばれるマイケル・ケンナ (Mike Kenna)
  ・ジョニー・パワーズ (Johnny Powers)

彼らは「灰色狼 (Gray Wolves)」と呼ばれた市会議員たちでした。

当然、汚職議員ばかりではなく、それを改革しようとしている人たちはいたわけですが、 シカゴにはアルカポネのようなマフィアのボスが台頭する下地が、もうすでに出来上がっていたのです。

【シカゴ・マフィア】
 1910年代 「ジェームズ・コロシモ」    → キャンディがシカゴにいたころ。
   ↓
 1920-1925年 「ジョニー・トーリオ」
   ↓
 1925-1932年 「アル・カポネ」



その他

<クックカウンティー病院 (John H. Stroger, Jr. Hospital of Cook County)>
1901年創立の公立の総合病院。
ロマネスク様式の建物は病院とは思えない。
ドラマ「ER - 緊急救命室」大好きなんですが、この病院の外観が映る時があるらしいです。・・・でも、全然記憶にないです。
キャンディの勤めていたシカゴの聖ヨアンナ病院は「内科」と「外科」が専門の病院でした。

<シカゴ交響楽団>
1891年に創立の世界屈指のオーケストラ。
以前何かの本で、ニューヨークのどこかのオーケストラは、パトロンプログラムという寄付制度があり、個人や団体からの寄付で運営していたというのを読んだことがあります。
芸術のパトロンといったら大富豪。アードレー家も多額の寄付をしていたのでしょうか?

<シカゴ・トリビューン - 新聞>
1847年創刊の日刊紙。
共和党の創立を支援、リンカーン大統領当選に力を尽くし、南北戦争時には全国的に注目される新聞になった。
参考文献 『アメリカを知る事典』平凡社 p.199より
そういえば、アルバートさんが新聞読んでるシーンがありました。どういう新聞を読んでいたんでしょうか?
まさかテリィのゴシップ記事が載ってるようなタブロイド紙ということはないと思いますが。
気になる新聞の値段ですが、キャンディがシカゴで暮らす2年前の1912年の「ニューヨークタイムス」は1セント。当時の物価を考えれば、今とあまり変わらないような気がします。


参考文献   『ヴィクトリアン・アメリカの社会と政治 (常松 洋 著) 昭和堂』
『ジャングル (アプトン・シンクレア 著/大井浩二 訳) 松柏社』
『ホワイト・シティの幻影 - シカゴ万博博覧会とアメリカ的想像力 - (大井浩二 著) 研究者出版』
『悪魔と博覧会 (エリック ラーソン 著) 文藝春秋』
『サムエル・インサル事件 (庄司淺水 著) 三修社』
『ミスター・カポネ (ロバート・J・シェーンバーグ 著/関口 篤 訳) 青土社』
『観光コースでないシカゴ・イリノイ (デイ多佳子 著) 高文研』
『電力の歴史 (T.P.ヒューズ 著) 平凡社』
『シカゴ日系百年史 (シカゴ日系人会 著)』
『世界地下鉄物語 (ベンソン・ボブリック 著) 晶文社』
『アメリカ大恐慌「忘れられた人々」の物語 アミティ・シュレーズ 著 NTT出版』
『近代建築史 (桐敷真次郎 著) 共立出版』
『百貨店の博物史 (海野 弘 著) アーツアンドクラフツ』
『電話するアメリカ - ネットワークの社会史 (著: クロード・S・フィッシャー) NTT出版』
『アメリカの女性の歴史 (サラ・M・エヴァンズ 著) 明石書店』
『女性の目からみたアメリカ史 明石書店』
『ザ・ブランド (ナンシー・ケーン 著) 翔泳社』
『クラウド化する世界 (ニコラス・G・カー 著) 翔泳社』
Chicago History Museum (http://www.chicagohs.org)
ENCYCLOPEDIA OF CHICAGO (http://encyclopedia.chicagohistory.org)
American Experience (http://www.pbs.org/wgbh/americanexperience)
Chicago "L".org (http://www.chicago-l.org)